京都駅から徒歩10分程度にある東本願寺。
東本願寺周辺には、「法語行灯」が設置されているのをご存じでしょうか。
夜道を行き交う人々の足元を照らす目的と、そこに掲示された法語で多くの人に愛されています。
当記事では、東本願寺の「法語行灯」に掲載されている法語の一部を紹介します。
人生において、なにか役立つヒントになるかもしれません。
法語とは
法語とは、道理にのっとって説かれた正しいことば。
禅家で、修行者を正しく指導するために垂れる教示の語、または文章。
また広く諸宗でも、説き示したことば、文章にいう。法談。法話。
法語の素晴らしさは、仏法の教えを、短い言葉として伝えられているところです。
東本願寺とは
浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、
一般的に「東本願寺」と呼ばれています。
境内建物は江戸時代に4度の火災に遭い焼失しましたが、
現在の建物は、全国のご門徒のご懇念により、
明治時代の再建事業によって完成したものです。
現在、御影堂・阿弥陀堂・御影堂門などの6棟は国の重要文化財に指定されています。
法語を紹介
これからご紹介する法語は、ごく一部となります。
色々と教えが詰まっていますので、ぜひおご覧ください。
人は「出会い」によって育てられ、人生は「別れ」によって深められる
人は、一生の間に何人の人と出会うだろうか。
自分にとって都合の良い人もいれば、都合の悪い人もいる。
思えば、都合の良い人だけではなく、
むしろ都合の悪い人との出会いが
私を育ててくださっていたのだと気づかされることがある。
自分の都合の良し悪しをこえ、人は出会いによって育てられているのだ。
また、出会いがあれば必ず別れはやってくる。
さまざまな人との別れによって、私たちは、
人として生きることを深く問い続けていく歩みを賜るのだろう。
人間の欲望には定年も品切れもありません
私たちは毎日、何かの欲望を満たすために一生懸命になっている。
そして、一つの欲望が満たされても、さらに新たな欲望が生み出され尽きることがない。
食欲、財欲、名誉欲、性欲…。
欲望を満たすために争い傷つけ合っている。
仏教では、このような人間の欲望が、苦しみを生み出す原因だと教えてくれる。
毎日のニュースを見ていると、今こそ、
お釈迦さまの「少欲知足(しょうよくちそく)」という教えを
いただかなければならないと感じる。
少欲知足(しょうよくちそく)
少欲にして足るを知る。
大切な人を亡くして改めて出会うことがある
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座るとき、あらためて亡き人のことを思い出す。
そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、老いて、病んで、
死んでいく身の事実を突きつけられるとき、
何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。
嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、
私にたくさんの問いを投げかけてくださる大切な人となってくださっている。
亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
「意味」を求めるのが人間の世界 「意味」を求める必要のない世界が仏さんの世界
人間は、何事にも「意味」を求め生きる生き物なのであろう。
意味を感じるときには、生きがいややりがい感じ、意味を見失うと、生きる意欲さえも失ってしまう。
しかし、その意味づけは、どこまでも自我分別をもつ人間の尺度・人間のものさしの領域を脱しない。
人間の存在の前には、意味は無意味なのではないか。
「意味」を求め「意味」に迷い、「意味」に沈んでいく人間。
仏さんの救いは、そんな意味づけ、価値づけが破られ、あるがままをよしとする世界を、ひらいてくださるのではないだろうか。
何事も人間の知恵では行き詰まる
人間の知恵によって、物は溢れ生活も便利になった。
一方で、人間の知恵の営みが、争いや悲しみを生み出し環境破壊を続けている。
どうやら人間の知恵は、自己中心的で、自らの欲望を満たすもののようだ。
そんな人間の知恵・考えはやがて行き詰まる。
人間が握りしめ、手放すことのない知恵は、仏様の智慧(ちえ)の光に照らされることによって、その限界を知らされる。
そこにおいて私たちは、行き詰ることのない確かな人生の歩を賜るのではないだろうか。
「不安」は真実なるものを求めている”命”のうめき
生まれてから誰に教えられることもなく、生活の中でさまざまな「不安」を抱える私たち。
老いること・病むこと・死への不安。
そんな不安が無くなることを、「救い」だと思っている人も多いのではないだろうか。
しかし、一つの不安が解消されたかと思えば、また次の不安が沸き起こってくる。
それは、真実ではないものを頼みとしているというシグナルではないだろうか。
つまり、「不安」は私の思いを越えた”いのち”からの”真実に生きよ”との呼びかけであり、うめきなのではないだろうか。
私の思いと現実とのギャップ それを「苦」という
私たちは、さまざまなことに苦しみ悩む。
この苦しみはどこから来るのだろうか。
老・病・死のさけられない現実は、自分の思いをこえて降りかかってくる。
もとより私たちは、自らの思いを越えて生まれながら、なんでも思い通りにしようと頑張っている。
その現実と思いのギャップこそが「苦」なのだろう。
そんな、事実を事実として引き受けられない私(人間)を深く知るとき、「苦」は私を育ててくださる大切なご縁として受け止められるのではないだろうか。
世界中どこを探してもあなたの代わりはおりません
「あんな人になりたい」と、どれだけ願ってもその人にはなれないように、私の代わりに私の人生を活きられる人は、世界中どこにもいない。
私は誰とも変わること代わることができない身として、今ここに生きている。
地球誕生以来の全歴史が、私という命の誕生をめがけて流れてきた。
数えることのできない無量無数のご縁が、私となってくださっているのだ。
そのことを深く知るとき、私は他の誰になるのでもなく、在るがままの自分自身を引き受け、
生きていくこととなるのではないだろうか。
死を見つめると生が問われる
毎日の生活に追われ、「生死」について考えることも無く過ごしている人は多いだろう。
私たちが「死」を考えるときはいつだろうか。
何かに悩み苦しんでいるとき、自分自身が病に伏しているとき、
身近な人が無くなったとき。。。
忙しい日々の中では「死」はどこか他人事だが、「死」を自分のこととして
受け取らなければならなくなったとき、今までの人生を振り返ることとなる。
そして、様々な問いが私に向かってくる。
人間は「死」を抱えているからこそ悩み、そして、成長していくのではないだろうか。
あなたは本当に人を人として見ていますか
世間では、会社や組織にとって有益な人を「人材」と呼ぶ。
どうやら私たちは、人間を材料としてみることがあるようだ。
何かの役に立つものにこそ価値があるという考えを根に持っているのであろう。
一方で「最近歳のせいか、身体が言うことを聞かず情けない。何の役にも立たん。早くお迎えに…」と嘆くお年寄りの声を聞く。
世間はもとより、自分の価値観のもにさしに合わなくなったとき、
人は他人のみならず、自分自身さえも嘆き見捨てていこうとするものだと教えられる。
言葉で傷つき 言葉で迷い 言葉で目覚め 言葉で生ききる
同じ言葉でも、時によっては優しく感じたり、また辛く感じることもある。
何気なく言われた言葉で傷ついたり迷ったり。
はるか昔に言われた言葉を思い出し、頭から離れなくなることもある。
私たちは、言葉で傷つき言葉で迷う。
しかし、一つの言葉との出会いによって、大事なことに目覚め、人生を生ききることもできる。
私たちは、毎日たくさんの言葉に触れながら生活しているが、実は一生をかけて、そんな一言を探しているのではないだろうか。
善し悪し・損得・好き嫌いばかりで生きている私
私たちの日々の生活は、善い悪い・損だ得だ・好きだ嫌いだという「人間のものさし(自分の都合)」をよりどころとしている。
思いが叶っているときはニコニコし、叶わなくなるとグチを言い、あいつが悪い、損をしたと嘆く。
そんな自分の都合で一喜一憂する私。
仏法を聞くということは、この不確かな「人間のものさし」が問われ、わが身の正体を聞くということ。
仏法に遇うということは、そんな自分の都合・日常意識をこえたものに遇うということであろう。
人間は煩悩をもつ身ではなく煩悩でできている身
「煩悩」は、迷いや苦しみの原因として、物欲・食欲・性欲などの欲望を指し、
自らの決意や集中力を阻害する雑念などを指す場合に用いられる。
自分の心でありながら、自分を苦しめる心。
多くの宗教は、そんな煩悩を断じ、無くすことによって救い・覚りを獲得しようとする。
しかし、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、自らを「煩悩具足の凡夫」と言う。
所有物のように手放すことなど決してできない煩悩。
聖人は、煩悩でできている身であるがゆえに、生涯、仏の教えに道部枯続けなければならない者として歩まれたのであろう。
苦しみ悩むことは本当に尊いことです
私たちの日々の苦しみや悩み。
すぐに忘れてしまうようなこともあれば、一生忘れられない苦悩もある。
そんな苦悩から逃れたい、そんな苦しみや悩みを無くしたいと、
どんなものにもすがりたくなる私たち。
しかし、その苦悩は「真実なるものに出会いたい」という人間の心の奥底からのうめきではないだろうか。
その苦悩が、人や言葉との出会いをひらき、
人生の長さばかりに捉われていた私に、人生を深く生きよと呼びかけてくる。
苦しみ悩むことは、私を育ててくださる本当に尊いご縁なのではないだろうか。
私はご縁でできている
今から約2500年前、お釈迦様は35歳のとき覚りをひらかれ「仏陀」となった。
その覚りの内容は「縁起の法」と教えられる。
「すべてのものは、ご縁によって存在している」ということだ。
私が今ここに生きていることを深く考えることがある。
「先祖」の歴史を辿っても、もはや数え切れないほどの不可思議なご縁によって私が存在している。
私という人間は、そんな計り知れない命を生きている「遇縁の存在」なのだと知らされ深くうなずくとき、生きる意欲がわいてくるようだ。
仏さまは、私に本音をかけ続けてくださるおはたらき
阿弥陀仏は、いつどんなときどんな世界にどんな姿をして現れるかわからない仏様。
阿弥陀という仏様は、そういう「おはたらき」なのだと教えられる。
「おはたらき」のほかに阿弥陀仏はおいでにならないのである。
その「おはたらき」について、ある先達は私の一生の間に「本音をかけ続けてくださる”おはたらき”」であると教えてくださった。
本音とはなにか。
善し悪し、損得、好き嫌いばかりを言いながら生きている私の一生の間に、
”真実に生きよ”と呼びかけ続けてくださっている声が仏様なのである。
迷惑をかけずに生きられる人は一人もいないのです
小さい頃、親から「人に迷惑をかけないようにしなさい!」と怒られたことのある人は多いのではないだろうか。
私たちが生まれたとき、誰もが必ず誰かに抱かれ、世話になりながら大きくなっている。
そのことを親になると忘れてしまうのだろうか…。
迷惑をかけないようにする努力は怠ってはならないが、
必ず誰かに迷惑をかけ、いろんな人の世話になりながら生きているのが事実である。
迷惑を掛けずには生きられないことを深く知るとき、
共に敬い、共に生き合えることとなるのではないだろうか。
互いに憎しみ傷つけ合う世界を「地獄」という
”悪いことをすると地獄に落ちるよ”という言葉を一度は聞いたことがあるだろう。
多くの場合、「地獄」とは自らの行いによってやがて往く世界だと考えられているようだ。
しかし、今、地球上では平和のため、人々を救うためと戦争を行い、
自らの理性や考えを正しいこととして疑わず、日々傷つけ合っている。
世界を見ても家庭を見ても正義と正義が戦い合っているのだ。
そのような人間のすがたを知らされるとき、
私たちはまさに「地獄」の住人としか言えないのではないだろうか。
立場が変われば良し悪しのものさしも変わる私
子どものころ、”親友だ”と言っていた友達が、
2、3日で”あんなやつ”に変わってしまったことはないだろうか。
雨が降り、恵みの雨と言ってみたり、厄介な雨といってみたりしたことはないだろうか。
大切なものや大切な人があっという間に逆転する。
自分にとって都合が良いか悪いか、損か得かで、
物も人も、天気でさえもはかっていく私たち。
その”ものさし”はどうも自分の立場や状況が変わればすぐに変わってしまう不確かなもののようだ。
不安を無くすことは出来ないが不安に立つことはできる
私たち人間は、生まれてからこの方、誰に教えられることもなく
苦しみ・悩み・不安を感じている。
生活に対する不安、から悪口を言われてはいないだろうかという不安、死に対する不安。
さまざまな不安が私の中に渦巻いている。
そして人間は、そんな不安を無くそうと宗教さえも利用しようとする。
しかし、どれだけ不安を無くそうと頑張ってみても不安が無くなることはない。
私に起こるそんな不安は、真実を求める命の叫びなのではないだろうか。
不安を無くそうとする私に、「不安を引き受け、不安に立て」と。
不安があるからこそ人生を歩んでいくことが出来るのだと仏様は促してくださっているように感じる。
自分の都合を叶えてくれるものが宗教ではありません
私たちは、さまざまな思いを叶えようと一生懸命に努力する。
しかし時に、努力をしても不安になり、神社やお寺などへ参拝し手を合わせる人も多い。
結果、思いが叶えば神様仏様のおかげといい、叶わなかったときには、神も仏もあったものじゃないと嘆き悲しむ。
どうやら、私たちは神も仏も自分の思いを叶えるための道具にしてしまっているようだ。
しかし本来、宗教というのは、人間の思い・欲望を叶えるものではなく、
自分中心の在り方を否定し、批判し、問い直させるものなのではないだろうか。
亡くなった人が迷っているのではなかった 私が迷っていたのだ
「亡くなった人が迷わないように、お寺さんにひとつお経でもあげてもらおう」と聞くことがある。
死者がどこかにさまよい迷っており、お経はその供養のための道具という了解なのであろう。
しかし、死者が迷うとはどうゆうことなのだろうか。
むしろ、人間として歩むべき道を見失ってしまうのは私の法ではないか。
亡き人を縁としてお経(仏様の教え)に遇い、仏法を聞く場に座るとき、
わが身の正体が知らされる。
亡くなった人は、死してもなお、迷いの中にある私を育ててくださっているのだ。
思いをこえて生まれながらなんでも思いどおりにしようとする私
自分の努力で思うが叶うこともある。
しかし、多くは思い通りにならないことばかりではないだろうか。
また、自分の思い通りになっているときには感謝をするが、
そうでなければ責任転嫁をしたり、”なんで私だけが”と嘆くこととなる。
私たちは、数えつくせない程の不可思議なご縁によって今ここにいる。
思いを越えて生まれてきたという尊さに目覚めるときに、
思い通りにしようとする人生の中にあって、縁って起こる出来事を大切にする生き方がはじまるのではないだろうか。
人間は自分の都合を悲しむ 仏さんはそんな人間を悲しんでいる
毎日、心が苦しくなる事件・事故が報道される。
しかし、数分もすると忘れてしまっていることはないだろうか。
家族に起こった事件や事故ならそうはいかないだろう。
どうやら、人間は関係性・感情・都合で悲しむもののようである。
仏さんは、そんな人間を悲しんでくださっている(大悲)。
その大悲の御心に触れるとき、自身の在りようを痛み、
人として生まれた悲しみを知る。
そこにはじめて他者の痛みにも心ひらかれ、あらゆる人々とともに生きんとする歩みがはじまるのではないだろうか。
不安や苦悩や悲しみは私を育ててくださる大切なご縁です
私たちが感じる不安・苦悩・悲しみ。
これらは、人間を不幸にするものだと思い、どうにか逃れようと躍起になるが、
不安や苦悩、悲しみは次々に湧いてくる。
悲しいかな、人間の営みは、不安や苦悩と離れてあるものではないのだろう。
しかし、そのことがさまざまな出会いをひらき、
人生を輝かせてくださることとなる。
仏様は、思い通りにならない不安や苦悩や悲しみが、私を育て、人生を深く、そして豊かに生きる大切なご縁となるのだと教えてくださっているのではないだろうか。
なぜ人間は、「正義」と言い傷つけ合うのだろうか
今日もどこかで人間同士が傷つけ合っている。
国や民族、宗教や文化の違い、経験や知識、またその時代によって「正義」が生まれ、正義と正義が争う。
その争いはテレビの中の話だけではなく、家庭の中でも繰り広げられている。
正義の反対は悪だと思っていたが、どうやら別の正義のようだ。
正義に立つとき、どんな残酷なことでもしてしまう人間の恐ろしさを感じる。
正義を振りかざそうとする私たちは、自己の正義を問い直す心の眼をもたなければならないのではないだろうか。
どんなにたくさんのものが手に入っても満足しないこの私
日々の生活の中で、「幸せになりたい」「今よりももっといい生活をしたい」と思い過ごしている人は多いだろう。
何かの望みが叶うと一時は満足感に浸り、幸せだと感じることになる。
しかし、その満足感も幸福感もやがては薄れ、次々と幸せを求めて心は転がる。
どうやら人間は自分の思い・欲望を満たそうと奔走するが、次から次に欲望は湧いてくるようだ。
どんなに思い通りのものが手に入っても満足しない私がここにいることを仏様は教えてくださる。
念仏は仏さまと私との会話
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏様の願い」が表された「名」。
南無阿弥陀仏とお念仏を称え(となえ)、その名をとおして私たちを救おうとする「仏様の願い」を聞く。
その呼応の関係によって仏様に育てられていく生活を賜っていくのだ。
「称える」の「称」は、「となえること、よびこと」の他に「はかる」という意味があるという。
いつでもどこでも、私の心と仏様の心を天秤にのせ、私の心と仏様の御心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
あなたは何を本当に尊いこととして生きていますか
生まれてからこれまで、何を本当に尊いこととして生きてきたのだろうか。
自分の好き嫌いで人と接し、ものごとを考え、常に損か得かと計算し、
自分の価値観で善し悪しを決め、他者を選び、嫌い、見捨ててきたのではないだろうか。
それでも、そんな私を悲しんでくださる仏様の「選ばず・嫌わず・見捨てず」の御心が届く。
”あなたは何を本当に尊いこととして生きていますか?”との問いとなって、
私を見捨てることなく、照らし続けてくださり、
人生を歩ませてくださっているのだ。
いのちは、私の思いをこえて生まれてきた
あなたは「なぜ、この時代、この家、この親のもとに生まれてきたのだろうか」などと考えたことはないだろうか。
考えれば考えるほど、私の思いが及ばないことを感じる。
本当に不可思議なご縁で私は今ここにいるのだ。
遡れば、私に至るまでの無数の祖先たち、その中で一人がかけても、この私はいない。
この私にまで流れてきた命は、ガンジス河の砂の数ほどのご縁によって連綿と紡がれてきたのだ。
さて、命を我がものとしない生きざまが、はじまるであろうか。
人生に正解なし 人生すべて無駄なし
私たちは、いつも何かの選択を迫られている。
それが自分にとって都合の良い結果になれば正解、悪ければ不正解だと思うだろう。
しかし、もし人生に正解と不正解があり、不正解の選択は無駄だったと断じてしまうのであれば、
生きてきたことの大半が無駄で、むなしい人生を過ごすことになりはしないだろうか。
自分の思いに合う出来事のみを良しとせず、
都合の悪い出来事をも私を育ててくださるご縁といただくことができるとき、
無駄なことなど何一つない人生を賜るのである。
さいごに
紹介させていただいた法語は、東本願寺より日めくりカレンダーとして販売されています。
値段も手ごろで、毎年使えるものとなります♪
私は、東本願寺に行って現地で購入しました!
当ブログ「活きる学び」をご覧いただきありがとうございます。
他多数の記事をご用意していますので、お時間あるときにまたお越しください♪